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新実在論は闘えない

「世界は存在しない」の主旨は、ただひとつの大きな物語はないということで、 それは、全体を統括する理論はないということで、つまりは「絶対的な神はいない」ということだ。 紛争を裁定するには、ひとつ上のメタ領域が必要となる。 現在の国家のもっとも大きな役割である。暴力装置。 しかし、国家間の紛争を裁定できるより大きな機関はない。 これが、「世界は存在しない」ことの意味だ。

これは、なかなか受け入れがたい真実だろう。 白黒はっきりさせて欲しいと思うのが人情だ。 実際、現実の衝突については、そうしないと前には進めない。 白黒つける力が覇権で、その覇権をめぐる軌跡を歴史という。 しかし、頂点の覇権同志の調停を行える覇権は存在しえない。 と考えると、世界が存在しない意味がわかるような気もしてくる。 覇権をめぐる闘争が続く限り歴史は続く。 もし仮に、絶対的覇権が現れればその時、歴史が終わる。

新実在論はこの構造を示すもので、新実在論自体が覇権になることはない。 覇権の衝突を裁くことはできないが、この構造を示すことはできる。 新実在論的には、いついかなる場合であっても一方的に攻撃することは許されない。 月に代わってお仕置きできない。

新実在論を受け入れれば、開戦することはできない。 これは大きな悟りである。キリストが言った寛容な愛に近い気がする。 ニーチェによれば、その愛はルサンチマンの正体ということになる。 新実在論も、やはりルサンチマンの産物なのだろうか??

正直言えば、自分が新実在論に魅かれる理由にそれはある。 大きな権力に対する妬み嫉み僻みは確実にある気がしている。 もし、既存の権力に対する口撃の手段として新実在論を持ち出せば、 おそらくそれはルサンチマンだ。

ただし、キリストが愛を語ったとき、 それは弱者の論理を突き詰めたのではなく、新実在論的な構造を直感したのだと思う。 キリスト自身はニーチェのいう超人だったのだろう。 ルサンチマンは、それが宗教となるときに紛れ込む気がする。

結局は、ニーチェが言ったように超人を目指すしかない。 もし、既存の強大な覇権に何か問題があれば、あると感じるのなら、 人を越えて、自分の正義を自分で打ち立てるしかない。 その倫理が実在していると明示するのが新実在論である。

その正義で他者を粉砕することはできない。 絶体に攻撃に使うことができない正義、永遠に到達しえることがない真実を求める態度。 どうだろう?受入られるだろうか? 心理的には受け入れるのは困難だろう。しかし現実的には受け入れざるを得ない。

対立とはコインの裏表で、裏と表、どっちが本当のコインか?を決めることはできない。 できることはその認識を変えていくことで、 そのために、時間は進み、宇宙は拡大しつづける。 新実在論は、この構造を示している。 実在するものは、必ずこの構造の中にある。