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人は悟れば仏になれるらしい。 よく「仏さまのような人」というが、 それは「悟ったようで悟れていないちょっと惜しい人」という意味だ。ウソ。

お釈迦さまは仏だったのか? 弘法さまは仏だったのか? それとも「仏のような人」だったのか? 仏は、たぶん仏陀の仏だから、少なくともお釈迦さまは仏なのだと思う。 もしかすると、その後お釈迦さま以上に悟った人もおられたかもしれない。 誰にもそれはわからないような気がする。

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お釈迦様がいわれたのは、 人生は四苦八苦、世界は縁起でできている。 その世界を生きる方法は、四諦を理解し八正道を歩み、 此岸を発って彼岸へ渡ろう。 要すればこれだけだと思う。

科学がまだ未熟な時代に直感で世界のなりたちを理解されたのだ。 それを宗教ではなく哲学だという人がいる。 そう思う。 お釈迦さまが見られた世界は今日では科学的に裏付けされている気がする。 その今日なお色あせないのは、四諦や八正道が如何に難しく 彼岸が如何に遠いかの裏返しだろう。 科学が発達した今なおまったく解明できていない課題が投げられている。

彼岸に渡るまで、つまり悟りに至るまで、 道があって、あるく人がいるので、ただの哲学ではなく、やはり宗教と言えるのだろう。

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人は自らの執着に苦しむ。これはわかりやすい。 問題はその後だ。 大丈夫、たくさんのガイドブックがある。 悟りに近づいた菩薩はお経を残された。 そこには沢山の長い長いお経をもってしても描ききれない世界が記されている。 さらには大学の先生による追加の解説まである。

いや無理じゃね?悟りなんかさっさと諦めるのが賢明と思えてくる。 違う違う、そうじゃない。 お釈迦さまは、お坊さんや教授になれと言われたわけじゃない。 執着に苦しまないでと望まれたのだ。

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ところで親鸞はなにを言ったのか? 死は煩悩の解脱。その瞬間、人は誰でも仏の境地に到達しえる。正に仏になる。 三途の川を渡り彼岸へ渡る。 いずれ成仏は約束されているので安心して生を生きなさい。 必要なのはただ念仏することだけだと。

当時、仏教は高貴な人たち(善人)が、留学して学ぶ高度な学問だった。 それでは我々賤民(悪人)は救われない。 阿弥陀様のスーパー救済力の持ち腐れだ。 救われるべきなのは我々(悪人)の方だろう。 他力本願、悪人正機、唯念仏は、イノベーションだったのだ。 学問のない人にも四諦を伝える工夫だったのだろう。

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阿弥陀に往生をお任せする。 任せたよ!後はヨロシク。で、結果にコミットしない。 それを信心という。 「信」という字はあるが「信じる」ではない。 成仏の期待を込めて信じることはできない。ここが難しい。

何も信じないで生きるのは「超人」じぇね? たぶんそうだと思う。親鸞はニーチェだったのだ。 他力本願、永劫回帰、輪廻転生、どれも誤解を招く言い回しで一瞬悩む。 でも、ただ今この瞬間を生きる希望と覚悟と勇気を指していると考えれば合点がゆく。 いいたいことは同じなのだ。

そして、これを知らずわかって生きている人は意外と多いような気がする。 悟りを求めればそれは執着になる。 仏とは、追っかけると逃げていくツンデレ乙女のようなものなのだ。