
オフィスは巨大な「養殖生け簀」
昨夜の返り血――もとい、冷たい青い粘液の感触が、まだ指先に残っている気がした。
佐藤は寝不足の目をこすりながら、いつものオフィスに出社した。しかし、会社のエントランスを一歩くぐった瞬間、彼は立ちすくんだ。
「おはようございます、佐藤さん! 今日のオフィス、すごく『調和』が取れてると思いませんか?」
デスクで山田が、眩しいほどの笑顔で声をかけてきた。
佐藤の目には、それが地獄の光景に見えていた。
天井の蛍光灯。昨日まではただの照明だと思っていた。しかし今、リサに教わった「視点」でそれを見ると、蛍光灯の光に混じって、細かな銀色の塵のようなものが絶え間なく降り注いでいる。
それは塵ではない。人々の思考力を奪い、多幸感を植え付ける「認識の麻酔」だ。
同僚たちはその塵を浴びながら、キーボードを叩いている。いや、「叩かされている」。
「……なあ、山田。ここの設計こんな仕様でよかったっけ? なんで誰もなにも言わないんだよ」
「仕様? ああ、そんな小さなこと考えるのはもうやめましょうよ。QPの指示とおりに私たちが心地よく働いてさえいれば、宇宙が勝手に帳尻を合わせてくれるんです」
山田が指差したモニターには、エクセルの表ではなく、うねうねと動く虹色の波紋が映っていた。山田はそれをうっとりと眺めながら、適当にエンターキーを連打している。
恐ろしいことに、他の社員も全員そうだ。誰も「仕事」をしていない。ただ、PCから放出される何らかのエネルギーと同期し、恍惚とした表情で虚空を見つめている。
この会社はもう、システム開発会社ではない。
宇宙人に効率よくエネルギーを捧げるための、 「精神の養殖場」 に変貌していた。
「佐藤さん、顔色が悪いですよ。あ、そうだ。これを飲んでください。会社から配られた新しい『サプリ』です」
山田が差し出してきたのは、ラベルのない透明なカプセルだった。
その中では、昨夜見たゴミ箱の体液と同じ、青白い液体がドロリと揺れている。
「これ、ただの水じゃないだろ」
「エネルギーの濃縮液ですよ。これを飲めば、佐藤さんも『あっち側』の景色が見えるようになります」
佐藤はゾッとして、カプセルを振り払った。
カプセルが床に落ちて割れると、そこから小さなムカデのような脚が生え、シュルシュルとデスクの裏側に逃げ込んでいった。
「あーあ、もったいない。徳が逃げちゃった」
山田は全く動じることなく、床に這いつくばってその「脚の生えた液体」を愛おしそうに追いかけ始めた。
佐藤は自分のデスクに逃げ帰り、鞄に隠し持っていた「アルミホイル」をそっと取り出した。
それをマウスパッドの下に敷き、さらには自分のこめかみに小さな破片を貼り付ける。
途端に、オフィスの不気味な虹色の霧が晴れ、現実の「惨状」が牙を剥いた。
サーバーラックからは太い触手のようなケーブルが伸び、部長の項(うなじ)に直接突き刺さっている。
給湯室からは、コーヒーの香りに混じって、腐った魚のような臭いが漂ってくる。
そして、壁に貼られた「今月の目標:一致団結」というスローガンが、アルミホイル越しに見ると、 「収穫まであと三日」 というカウントダウンに書き換わっていた。
「……あと、三日」
佐藤の胃が、ギリリと音を立てて収縮した。
この会社にいる人間は、三日後には文字通り「吸い尽くされる」。
その時、佐藤のスマホが震えた。リサからのメッセージだ。
『会社、居心地いい? 悪いけど、そこはもうチェックアウトの時間よ。給湯室の換気扇を見て。そこに宇宙人の「嗅覚センサー」が張り付いてる。それを壊して、今すぐ脱出しなさい。……あ、バールは鞄に隠してるわよね?』
佐藤は鞄の中の重い鉄の感触を確かめた。
同僚たちは、相変わらず虹色の波紋を見つめて笑っている。
もはや、ここには「日常」なんてどこにもなかった。あるのは、食うか食われるかの、一方的な捕食の場だけだ。
佐藤はゆっくりと立ち上がり、バールを握りしめた。
部長の頭に刺さった触手を、思い切り引き剥がしてやりたい衝動を抑えながら、彼はまず給湯室へと足を進めた。
(第3話・完)