
信仰で人は救われるのか?
信じる者は救われる!ので、信じることがキーポイントになりそうだ。
でも、信じることができないものを信じることはできない。
信じないと救われないぞ!と脅迫されているような感じも少し嫌。
信じられないものを頑張って信じるようになるというのも何か違う気がする。
そこで、「信じられるものを信じれば救われる!」というのを思いついた。
信じられるものを信じれば良いというのであれば、わりと簡単に救われるようになる気がする。
今ある宗教はそうじゃないのだろうか?
宗教の教にはなんの間違いもなくて、
教が宗になるときになにか怪しくなっていくような気がする。
「宗教で人は救われるのか?」どうかはかなり微妙だ。
宗教の教だけを信じるのであれば、たぶん救われるだろう。
信じることができるのであれれば。
信じることができなければ、もちろんそれで救わることはない。
ただ、その教では救われないというだけで、他の教で救われるのなら...
それが自分の宗教ということであれば、その宗教で救われるだろう。
要するに、自分次第ちゅうことだ。

大陸の向こうの悲惨なニュースを聞くと宗教を怖いものだと思ってしまう。
同じ宗教の罪のない人たちにとっては迷惑な話しで、
その人たちにとって、それは間違った信仰だということだろうが、
宗教にはそうゆう危ない側面がありそうな気がする。
身近にも、宗教に家族を奪われて迷惑している話しもあって、
これはどの宗教だからということではない気がする。
現代では、多くの人はそれがよくわかっていて、
それで宗教とは少し距離を置くようにしているのだろう。
あるいは、その誕生当時ほど、今の人にとっては左程必要でなくなっているのかもしれない。
必要ではなく危険なものであれば「拒絶する」ので良いのだろう。
でも、本当に必要ないのだろうか?
これには賛否両論ある気がする。
罪を犯さず慎ましく信仰している人まで一緒に拒絶してしまうのははばかれる。

宗教を否定できるのか?
神さまなんてどこにもいない!
学校で科学を学習したオラ達は多かれ少なかれそう思っていると思う。
神に祈るなんていかにも非科学的行為だ。
一見、科学により以前からある宗教は否定できるように思える。
実際、歴史の一時期において科学の進歩はそのような万能の勢いがあった。
結果は、科学を持ち出して宗教を否定するのは、
失敗が周知となった某主義のカビた思想となってしまった。
最新の科学は、むしろ神と手を組みつつあるような気もする。
たとえば、TVにでている脳科学者であれば、
「神さまに祈るのは人の脳には良いことである」とか言いそうな気がする。
科学と宗教は相反する関係ではなさそうだ。
また、たとえ最新の宇宙望遠鏡がはるか彼方の地球型惑星を発見しようとも、
どうして宇宙がそのようにできているのか?を今の科学は説明してくれない。
科学には残された課題があって当面神の代わりを務めることはできない。
神などどこにもいない。というのは、
ただひとつの神がおられると言ったり、
そこかしこ八百万の神がいると言ったりするのと同じことを
違う言葉で言っているだけなのかもしれない。
いかに科学信者であろうとも、
天地創造の神大日如来から逃れて、いまここに居ることすらできない。
神がいるか/いないかを問うのは不毛だろう。
結論、神などいないと言って宗教を否定してみても、
それはそうゆう新しいひとつの宗教にすぎないような気がする。
もちろん、自分教以外の他人教を否定することはできるだろう。
しかし、その神を否定することはどうしてもできなさそうだ。

宗教はなぜ誤るのか?
釈迦やイエスやムハンマドが語ってからずいぶん長い時間が経って、
その間、数知れない多くの解釈がその教えに加わえられ、
同時に同じくらい多くの災いも招いてきたように見える。
そもそも、その災いの苦から人を救うために彼らは話したはず。
なのに、その教えが元に新しい災いが巻き起こる。のは皮肉だ。
人はどうもそれを正しく理解することができないようだ。
おそらくこんな寓話も聖書のどこかに預言されている気がする。
どの宗教にも「偶像を拝んではならない」という教えがでてくる。
神ではない神を崇めてはならない。ということだろう。
たぶん、神を言葉で理解することも信じることもできない。
神とはこうゆうものだといったり、神を信じると言ったとき、
その時のその神は、神ではない神、すなわち偶像だろう。
言葉になった神は彫られた神と同じく芸術にすぎない気がする。
神を信じる場合において神は存在しない。
ゲーデル命題。
神などいない!と言う人の中にも、偶像を信仰している人は沢山いる。
というか、あきらかに神ではない神を拝んでいるのがあきらかだったりする。
釈迦もイエスもムハンマドも、
まさにそのことをそのことだけを伝えたかったのだと思う。
それに解釈が加えられ、いつのまにか宗教になり、
教えではない教えを学び、神ではない神を拝んでいる。
たぶんおそらくそうゆうことだと思う。

どうやら科学で宗教を否定することはできなさそう。
一方、宗教が誤ることがあるのもあきらかで、
無条件に受入れて信じることはできない。
それが判明している現代においても、
なお深く信仰している人は依然多くいるように見える。
人はなぜ信仰しようとするのだろう?
宗教に否定的な人は「人の弱さに付け込んでいる」などと言ったりする。
これはなんとなくわかる気がする。
宗教を必要とするものが弱さなら、
強い人、弱い人はあって、それをあまり必要としない人もいそうな気もする。
じゃあ、信仰している人は弱い人ばかりかというとそうでもなくて、
ただ単に道徳的に敬虔な信者である人も多くいるように見える。
何か頼れるものを求める人と、ただ道徳的に生きようとする人、このふたつは異なる動機のような気がする。
どちらも多かれ少なかれ誰の中にも存在するため、
これを区別して意識することはあまりないような気がする。
お釈迦さまやイエスさまは、道徳的に生きることを求めたわけではない。
ただ単純に、いま困っているその人に救いの一言を言いたかっただけ。だったのじゃないかと思う。
それがいつの間にか「正しく」生きるための術みたく変わってしまった。
ニーチェの批判はキリスト教だけに向けらたわけではない。

子供のころ、何をしてもかばってくれる人がいた。
なにか失敗をしても「大丈夫だよ!」と励ましてくれる人がいて安心していた。
信仰を必要とする人の弱さってこれのことじゃないかと思う。
「大丈夫、それでも阿弥陀さまは貴方を救って下さるから!」
たしかにこれで明日も生きてく勇気になる。
この弱さはいったいどこからくるのだろうか?
たぶん、いつか死ぬとわかってしまう。に由来する気がする。
今生きているのを意識することができる。
結局南極、要するに、人間だから!ってことだが。
辛いときなど、ふと「なんで生きているんだろ?」に気づいてしまう。
科学的にこの問いの答えはないまたは不明が正解で、
それだとなかなかやりきれないので、
理由があると思わさせてくれるものを求める。
というのが、宗教が提供している救いの気がする。
人生に理由なんかいらないぜ!今が楽しければそれでイイ。
そんなこと考えてるヒマはないぜ!仕事だ!遊びだ!
と言える人はたぶん強い人だ。人はときどき強かったり弱かったりする。

どの宗教にも戒律的なものがあり、
それが社会の道徳に貢献しているということはありそうな気がする。
一方で、道徳的というのは単に生物科学的に合理的な行動に過ぎないと見ることもできる。
部族とか国家に守られて生きるしかない人が
その秩序に忠実を明示するのは合理的だろう。
この場合、ある集団で道徳的であることが集団外部においても道徳的である保証はない。
内部に統制を必要とする権力構造が、
人の道徳性を利用するのに宗教と手を組んだ例は多くありそうだ。
教会や寺院もやはりまたそれを利用している面があると言えるだろう。
道徳的であることは、もちろんそれ自体はまったく悪いことではない。
それが利用されて多くの血が流され続けているのは事実なので、
これを仕方ないこととして放置することもできない気がする。
人は神を信じようとして、いつのまにか神ではない神を信じるようになる。
道徳的であることについてはいつも用心してかかった方が良さそうな気がする。
仏教においては戒律が主にならなかったことは幸いだったと思える。

権力が宗教を利用するのか、宗教が権力を利用するのか、
どっちがどっちかよくわからない。
とにかく、宗教にはそれ系の黒歴史が存在しているのは確かだ。
一方、人は人であるがゆえに、宗教的な支えを捨て去ることもできない。
どうすりゃいいのさ!?と、いつもの難問にぶち当たる。
こうゆうときの解決方法のひとつのパターンとして、
一旦受け入れてそして捨てる。は、どうだろう。
結局のところ、「信じる」に囚われるから落ちるのであって、
お釈迦さまは、ただそのことをおっしゃったのであり、
偶像を拝んではならない。も、同じことを言っているのだろう。
戒律は、時代的、地理的、文化的背景があったもので、
時や場所が変わればそれに囚われる必要はない気がする。
それがわかっていれば、ただ儀礼、習慣として続けるのはありだろう。
黒歴史が故に頑なに拒んでみても逃れることはできず、
むしろ同じ落とし穴に落ちてしまうこともある。
一旦は受け入れて消化してから流せば良い気がする。
「信じる」を捨てて信じれば良い気がする。なんのこっちゃ

仏教には実にさまざまな宗派がある。
一乗にもさほど多様な解釈が生まれる。
法華的に唯念仏を邪とみることは可能だろうが、
仏教的に真宗を破することはできないので、
法華経も阿弥陀経も同じ仏の教えになる。
ということから、仏教はオラオラ教だということがわかってくる。
オラオラ教的には、イスラムもキリストもまたオラオラ教である。
キリスト信者はオラオラ信者を否定することはできるが、
オラオラ信者はキリスト信者を否定することはできない。
キリスト教はオラオラ教に勝つことはできるかもしれないが、
オラオラ教がキリスト教に勝つことはありえない。
みんな、オラオラ教を信じることができるだろうか?
まあ、オラ神さまなど信じるに値しないと普通に思うだろう。
でも、オラオラ信者はキリスト教もイスラム教も学ぶことができる。
お得と言えばお得だ。
もし不安になれば、ムハンマドや釈迦やキリストに問うてみれば良い。
さて、彼らはなんと答えるだろう?