
科学にはまだ宿題が残っていて、
現時点の科学では、人が生きる意味に「無」で答えるしかない。
しかし、それは今はただ妄想するしかないというだけのことで、
人生が無意味であるかどうかは実はまだ決まっていない。
もっともらしい妄想は人を惹きつけてやがて宗教になる。
しかしその妄想の神は人々の中ですぐに違う神に変わっていく。
神は妄想なのでこれは仕方がない。
宗教家や政治家や科学者がいう神を簡単に信じてはいけない。
それはイエスやムハンマドが注意した偶像である。
とにかく人生が無意味かどうかはまだ決まっていない。
そして、科学も宗教も誰も何も保証はしてくれない。
決めるのは結局は自分。自分次第なのだ。
誰の神でもない自分のオラ神さまを自分で見つけるしかない。
お釈迦さまが菩提樹の下ではっと気づいて見られた世界、
科学が進んだ今の私たちが見ている世界に似ているところがある。
そこにはもはや絶対はない。
そのことを執着してはならないと言われたのだ。
頼るべきものがない。
けれど、自分は生きているし世界も存在している。
そうゆう世界を生きていく必要がある。
決して答えを得ることができない課題を抱えたまま生きていく必要がある。
どう生きていくかに正解はない。
誰のいうことを信じていればよいというわけでもない。
宗教に深くダイブするのを無意味とは思わないが、
誰かの知恵はその誰かの世界の知恵であり、
自分の世界はその知恵が生きた世界とは違う。
必要なことは、その世界をただ生きていくこと。
何を信じて生きたのかではなく何を思って生きたのか。
世界はそれを集めて創られている。
釈迦は人が生きているその世界を見たと言ったのだ。

いくら考えてみても答は見つからないのがわかっている。
なのに繰り返しついつい考えてしまう。まったく阿呆なことだ。
そのことについては、そんなことは、自分で考えてもしかたない。
賢い誰かに任せておけばいいのだ。他力本願ていうじゃないか;
しかし、その賢い誰かの教えを信用するために、
それを理解し納得する必要がある。
そのためにまた別の誰かの考えを遡る必要がある。
誰が何を考えたのか?どうしてそう考えたのか?
結局最後は、自分で考えるしかない。
迷いをサボる方法はある。
どうして?という問いに「決まっているから」と答えると良い。
現実世界では、これは便利っちゃ便利な方法だ。
いちいちそもそもに戻っていては、忙しい毎日をやり繰りするのもままならない。
晩飯の準備ができない。
たいがいのことは考えないようにして生きてくしかない。
ただ、ときどき、けっこうたびたび、んなこたぁ~ちっともまったく決まってないでしょう!
にぶち当たる。
「決まったこと」で片付ければ迷いは生まれない。
が、だいたいに於いて「決まっている」なんてことはほぼない。
サボるのは自由だが、簡単にサボることはできない。
瞑想はどうだろう。
ただ座る。は難しい。座ってすぐに頭は何かを考えだす。
これがいったいなんの役にたつのだろう?
これは本当に正しい方法なのだろうか?
もっとうまくやる方法があるんじゃないの?
もっと良い方法を編み出せば儲かるんじぇね?
煩悩が、妄想が、どんどん膨らんでいき今回も瞑想はすっかり失敗だ。
いつか成功する日はやってくるのだろうか?

座るのはひとつの手段だ。
お経を唱えるのや写経するのもたぶんおそらく同じ。
手段なので、上手/下手、正しい/間違い、向き/不向きがあるだろう。
しかし、この手段の元の目的はあまりにも難しい。
というかそれが何かはっきりしない。
なので、これは手段ではなく目的でも構わない気がする。
いまだかつて誰も成功したことがないといえるし、
人それぞれにそれなりに誰もがみんな成功しているともいえる。
「考える」を捨てる手段のひとつとして、
今なにを考えているのか観察するという方法を思いついた。
あ~またエロエロ妄想してますなぁ~~と、
外から眺めることができれば捨てやすくなるような気がする。
忘れちゃいけないことをメモをして忘れてしまうということもある。
この迷想をこうして書き残すのはたぶん役に立つ。
そのうち、迷も想も尽きて、「ただ座る」ができるようになる日がくるかもしれない。
迷想の記録は座禅をしたりお経を唱えるのと同じことなのだ。
この世界を全て論理的に記述できると考えてそれを試みた人がいた。
結果、そうゆう万能の言語は存在しないことがわかった。
今現在わたしが使う言葉にその能力はないということだろう。
語ることはできないことは口を閉ざさなければならないと彼は言った。ずいぶん厳しい掟だ。
論理的に証明できない命題があることを数学で証明した人もいた。
神様はいる!を証明することはできないのが証明された。
つまりそれは、ズバリこの世界に真実と言えることはなにもないってことだよね。
ちょっと凹む。やる気が失せるというか。
たぶんこれは気づいちゃいけないことなのだ。なのにそれに気づいてしまう。
これは、人が言葉を得た代償に与えられた罪で、
それをどう超えていくのか?もまた人に与えられた宿題なんだろう。
どの生き物もそんなことは考える暇もなく必死で生きている。
人もまた同じように生きなければならない。
人を超えて生きていけと言った人もいた。
お釈迦さまは、人生の苦しみは執着から生まれるといわれた。
そのことは分かり易くて、納得もいく。
そして、執着を捨てようとするとそれもまた執着になるので、
そこに簡単な答えを見つけることはできない。
答えがなくても生きていくってことを言われたのだろう。
語ることはできないことを語りながら今日も明日も生きていく。
あまり知られていないが、これが今の世界最大の宗教である。