
わかるということ
猫を見ればそれが猫だとわかる。
でも、猫はわたしを人間だとわかっていない気がする。
人間には猫にはない能力があるような気がする。
それはどうゆう能力なのだろう?わかるというのはどうゆうことだろう?
仕事でも家庭の会話でも、しょちゅう「わかりやすさ」が求められる。
とかくわかりやすく手短な説明が要求されるので、
わかりやすいというのを、
面倒で長い話を短く簡単に要約することと誤解して、
余計にわかりにくくなることがある気がする。
なにがどうなっていればわかりやすいと思うのだろう?
お前は何もわかっていない!わかってないのはそっちだろ!
このとき、それぞれ何がわかっていて、何がわかっていないのだろう?
「そっか、わかった」と言ったり思ったりするほど、
わかるということがあまりよくわかってない気がするにゃん。

わかるは分けること
ある論理学者の本の受け売りだが、
わかるというのは「分ける」であり、
分けるとは、違うと同じを分けることで、
わかるというのは、違うと同じをきちんと分けつくすことだとある。
わかる気がする。
たんすの引き出しを夏物と冬物で分けること。
机の引き出しを文房具と書類に分けること。
本棚の棚をまんがと小説に分けること。
整理整頓。あるものがあるべき場所を決めること。
これは誰でも普通に特に意識することなくやっていることだろう。
猫にこれは難しい気がする。
たぶんこれが人が獲得した特殊能力。
動物/植物、猫/犬、セレブ/野生...
区別する能力、抽象化する能力、メタを認識する能力、
これによって、人は猫よりずっと多くのことがわかるようになった気がする。
他の動物に比べ人が優れて、わけてわかる人の性質、それを理性と言うらしい。
おそらく昔の人より今の人の方がより多くわかるようになっている。
つまり、理性は人に根源的に備わっているものではなく、
磨いて発展させてきたものに思える。蓄積、熟成。
より上手に分けられるようになってきたと言えるだろう。
なにかをわかろうとしてもわからないので、
ついわかることを諦めてしまうが、
わけることであれば続けることができ、
実際、誰かが誰かにそれを引き継いで現在があるのだろう。
だから、誰かがわかっていればいいというわけではなく、
わたしがわかることを諦めてはならない気がするにゃあ。

なぜ人はわかるようになったのか?
猫にはない人の能力、理性はどうやって生まれたのか?
どうして言葉が使えるようになったのか?
それがヘビにもらったリンゴだろう。
なにかのきっかけでなぜか人は、
君と僕が同じで違うがわかるようになったのだ。
言葉が生まれて効率よく集団で狩りを行うことができるようになった。
もし人より多く食う人がいると、みんなには良くないことが起こる。
そして道徳が生まれ、やがて宗教が生まれ、科学が生まれ、
ついては、わかるということの意味をわかるようにまでなった。
はじまりは、ひとつのきっかけだったのだワン。

わかりやすさの技術
わかることは分けることだとわかった。
これには上手下手があるような気がする。
部屋をいつもきれいに片付けられる人もいれば、すぐにちらかってしまう人もいる。
もし本棚に、まんがと小説が区別なくおかれていれば、新しい本をしまう場所に困るだろう。
誰が見ても迷うことなく整理が保たれた状態、それをわけやすい、わかりやすいというのだろう。
ちょっとまえ巷に「ロジカルシンキング」が流行ったことがある。
おそらくそれが、わかりやすさの技術だ。
本になって売り出されると、
なにかビジネス社会を勝ち抜くための道具のように感じて、
ならば自分には関係ないかもと思いたくもなるが、
単純に、わけるため/わかるための必要条件と言えるだろう。
だれのためではなく、自分のため、生きていくための道具となる。
実際だれもが、意識せずにロジカルにシンキングして、
それで「わかった!」とか言っている。
それ以外にわかる方法はない気がする。
わかるはわけるで、わける方法を理解できれば、
わかりやすさの種を植えたことになるだろう。
逆に、この基本構造を理解していないと、
わかるとはなにかわからず、正しくわかることはない気がするにゃあ。

わかりやすいけどわからない
厚生労働省などは、よく喫煙者の平均寿命が非喫煙者より十二年短いと説明しているが、日本の疫学データではせいぜい2-3年の差のはずで、過大評価だ。仮に喫煙者の方が早く亡くなるとすれば、その分、医療費もかかっておらず、超過医療費の問題とも矛盾する。もう少し、実証的なものとあわせた議論が必要だ。
某JT役員さんのお話だがわかりやすい。とても論理的。
自分も喫煙者なので心の中で「そうだそうだ」と思った。
でもまあそこそこ叩かれるだろう。
構造が成立すれば論理的となる。
論理的だからといって誰もが理解納得するわけではない。
そして、世界のあちこちいたるところでいろんな議論が行われる。
論による争。論理的に武装して打ち破ることを論破というらしい。
わかりやすいからといってわかってもらえるとは限らない。
が、わかりやすくなければわかってもらえることはない。
夜中トイレに起きたら、妻がテレビを点けたまま寝ていた。
テレビを切ると起きだして「なぜテレビを消すのか」と言う。
「見てなかったでしょう」と言うと「見ていた」と言い張る。
論理の食い違いは同じ星に住めないレベルだにゃん。

なぜわかりあえないのか
たぶん、世界が違うのだ。
地球はひとつだけなので現実もひとつしかないと思うのがたぶん間違いだろう。
私の現実とあなたの現実が同じかどうか確かめる手段はない。
人それぞれに違う世界があると見るのが良さそうだ。
マルクスガブリエルさんもそう言っている。と思う。
ちょっと違った;
わたしは実存する人間だが、
うちの猫はわたしを大きな猫だと思っているらしい。
どっちが本当のわたしなのか?猫とわたしで話し合って決めることはできない。
とカントさんも言っている。と思う。
ニーチェさんに至っては「神は死んだ」ので、
同時にひとつの世界、ひとつの正義も不在になった。
人が正義を語ることはできなくなったのだ。
正義を語りたければ人を超えてかかる必要がある。
あなたの世界とは違う私の世界に正義はある。
しかしそれはあなたの世界の正義ではない。
共通の世界に正義はなくて、あるのは私とあなたの立場だ。
共通世界で正義を語るとき、それはただ単に自分の立場の表明にすぎない。
人にとって立場はとても重要だ。命そのものよりも重要と言えるだろう。
立場のために人は死ねる。人はそれを正義と言うだろう。
立場の戦争であれば、いくら正義をぶつけ合ってもわかりあえる日はこないだろう。
男女雇用均等法が開始されたとき、職場でそれについての話し合いが行われた。
ある女性社員が「同じ仕事なのになぜ給料が違うのですか?」と質問した。
部長は答えに困った。答えられないだろう。
彼女の給料を増やすには部長の分を削るしかない。
部長ひとりが慈悲深ければ済む話でもない。
人はこれを普遍的に行うことができるのか?それが本当の問題だ。
もし問題を正しく把握することができればいつかわかりあえる日がくるのかもしれないにゃあ。

理性的vs感情的
理性的でない言動を感情的という。
理性と感情は裏表の関係なのだろうか?
感情とはなに?が、わからなくなる。
喜びや怒りの科学はたぶんある。
科学的に説明される感情というものはありそうな気がする。
感情が理性の対語となるのに少し違和感を感じる。
論理の組立には時間が必要となる。
時間が不足すれば論理に矛盾が生まれる。
一方で神羅万象を論理的に理解できているわけでもない。
むしろ論理の矛盾を解決できないまま抱えていることの方が多いだろう。
それにもかかわらず行動は必要になる。
そのときどきの言動を決定する脳の働きを感情というのだろうか。
むしろ言動はいつも感情に従っているのかもしれない。
すると、今度は逆に理性的な言動というのがなにかわからなる。
突然の質問には戸惑う。
過去に考えたことがある同じ問題であれば、うまく返事することができるかもしれない。
論理は行動に先立ち事前に準備しておく必要がありそうだ。
そうしておけば、感情の発生をコントロールできそうな気はする。
蓄えた論理を理性というのだ。
とにかく理性と感情は排他の関係ではないだろう。
感情は常にあり、理性はふりかけのようなものだ。
たっぷりあるときもあれば足りないときもありまったくない時もある。
人はとかく理性を求められるので理性に基づく行動を信じたくなる。
そうゆうには蓄えがあまりにも少ない気がする。
それに気づき修行するのが菩薩なのだろう。
生きてる人は誰でもみんな菩薩だ。
完全な理性が存在しないことはわかっているが、
貯める代はまだまだ沢山残っていそうだにゃ。

袋の中の猫
理性には限界がある。学校を卒業した後もずっとつい最近までこれを知らなかった。
習わなかったよね?
とても重要なことなので、是非学校でも教えるべきだと思う。
これを知る前後で見える世界がまったく変わるだろう。
「世界を論理的に記述できる理想的な言語は存在しない」
言葉で考え、言葉で伝える、その言葉で表現できる世界は閉じていて、世界の外のことは語ることができない。
空を飛ぶ鳥が、実は空が空気で満たされていることを知りえないように、
人間にも、あきらかにそれを見ているにもかかわらずそれがなにか知覚できないものがあるのだ。
知りえないものがある。あるのであってないのではない。
人にとっての神や真実はないのではなく、
ただ、誰にもそれを言い表すことができないというだけで、
理性に限界があるからといって理性をあきらめることはできない。
人ができることは、やはり理性をためて磨くことだけだ。
神の時代、神がただひとつの真実だった。
地平線の向こうに無限に広がる大地を誰も疑うことはなかった。
ひとがわかっているのはそうゆうことだ。
科学の時代、物が神にとって代わった。
地球は回っているのがわかるようになった。驚きだ。
いろんなことがわかるようになってきて、いずれどんどんなんでもわかるようになる。
いずれ科学が全てを解決する。はずなのに...
とにかく猫はふくろの中に入りたがる。
オラはいったい何が見えてないにゃん。